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2023年3月の方向性

テーマ:私は4人いる~ホールブレイン

~ ジル・テイラー女史の「全脳」理論を検討する ~

 

 

今月は「脳」を取り上げる。

 

ここではさくっと今月のテーマを紹介したいところだが、ヌーソロジーで「脳」を扱うことには誤解を生じる可能性があるゆえ、そうはいかない。

 

なぜか。

 

そういうことも含めて、以下の文章を読んで欲しい。

 

結局、今月の教室PR文なのだが、とても示唆にとんだ意義深い読み物となっている。

 

飛ばし読みではなく、慎重に読み進めてほしい。よろしくお願いする。

 

 

●ヌーソロジーと脳科学は真逆

 

実のところを言うと、ヌーソロジーは「脳」には手厳しい。

 

何故なら現代人最大の誤謬・迷妄にして、ずばり「人間型ゲシュタルト」の根幹をなしているのが「脳が意識の源」という考え方である・・・とするのがヌーソロジーだからだ。

 

少なくともヌーソロジーは、意識をこの「脳」依存から脱出させようとしている試みである・・・と思ってもらって間違いない。

 

「脳が意識の源」という常識? が生まれてきたのもデカルト由来と考えて良いだろう。

 

デカルトによって、目の前の「モノ自体」とそれを見ている「私の意識」が分離した。

 

デカルトにおいては精神と物質は神に保証された2大原理として、精神の「霊性」は神の元にまだ保護されていた。心身二元論である。

 

しかし意識を「モノ自体」ではなく見る側の「内部表象」とする方向性が、やがて「脳活動の結果が意識」という考え方になっていくのは既定路線であった。

 

一度「脳が意識の源」という考え方に取り憑かれてしまえば、「精神は脳に従属する」と考えることが常識となり、それはそのまま霊性の死滅を意味する。

 

文字通り「死んだら終わり」ということだ。現在の知識人達の中では間違いなくこちらが常識となって幅を利かせている。この病巣は深い。

 

 

●ではなぜ統心は「脳」を取り上げるのか。

 

振り返ってみると、統心はかなりの「脳科学」好きである。

 

いつも取り上げている機能脳科学者・苫米地英人氏・・・私は彼を「人間の内面」のエキスパート、天才として高く評価している。

 

2021年にはアマゾン原住民「ピダハン」を取り上げた流れで、ロボマインド社の田方氏についても何度かレクチャーで紹介した。

 

田方氏と言えば「AIに意識を発生させる・・・」のロボマインド・プロジェクトで、YouTube上に関西人ギャグ満載の面白い研究動画を多数発表し注目されている市井のエンジニア・研究者である。

 

両者とも脳の「機能上」の仕組みや、脳活動の結果とされる「言語」の仕組みに詳しく、それらの研究・解明によって「人工意識」を作り出せると考えている・・・いわゆる「強いAI」主義者である。

 

一見するとヌーソロジー的には「トランスヒューマニズム」まっしぐらの「逆グノーシス(暗黒啓蒙)」として受けとめられそうだが、私はそうは思っていない。

 

彼らの研究は「人間の内面」を「見える化」(まさしく顕在化)してくれていると思っている。そのことが、正反対の「人間の外面」(霊性)を見出すことに寄与するというものだ。

 

 

●脳は意識のカタチか?

 

だがよくよく考えてみると、私の「脳科学」好きと、ヌーソロジー提唱者である半田さんの「素粒子」好きは、その方向性が似ていると言えなくもない。

 

ここは厳密な所なのであえて慎重に理解してほしい。

 

半田さんは「素粒子の正体はわれわれの意識だった」の文言でデビューしたニューサイエンティストである。

 

物質現象として捉えられている「素粒子」が「意識」そのものだったということ。

 

物質の根本とされる「素粒子」が「意識」ならば、目の前の「物質世界」はすべて「意識世界」じゃないか・・・となる。

 

半田さんの志向性とオコツトのアドバイスもあって、ヌーソロジーはいまも一貫してこの方向性を突き進んでいる。

 

目の前の物質の中に霊性を、つまり「答えは目の前にある」を追求しているのがヌーソロジー。これを「霊的唯物論」という。

 

この考え方を拡張すれば、目の前に提示された「脳」をして「意識のカタチ」であると見ることもできるのではないか。

 

物質の中に霊性を見るんだから、脳をただの物質と見ることなど到底できない。そりゃそうだ。

 

だがこれと先ほどの「強いAI主義者」(脳機能主義者)とどう違うのか。ここが大事なところ。慎重に理解してほしい。

 

 

●脳が先か、意識が先か

 

脳機能主義者達というのは、意識(心)は脳の活動の結果として生じていると考える。

 

この考え方を分かり易く表現すれば、「脳=コンピュータ」「意識=プログラム上の現象」ということである。

 

あくまでも「脳が原因、意識は結果」という考え方だ。だから死んだら終わり。霊性については「永遠性」などという考えはしない。

 

この考え方がヌーソロジーと全然違うのは明らか。むしろ全く逆でしょう?

 

ではヌーソロジーは「意識が原因、脳は結果」と考えるのか?

 

いや、それは微妙だ。それだと「観念論」という物質無視の方向になる。

 

ではヌーソロジーは「脳と意識は同時現象」と考えるのか?

 

いや、それも微妙。それだと「脳機能主義者」とあまり変わらない。

 

これとは別に「同時」に近い「平行主義」というのがある。こちらはスピノザ的な立場と言われる。

 

「一切が神(霊性)の表現」と考えるスピノザ哲学はヌーソロジーの「霊的唯物論」に最も近い。

 

だからこの「平行主義」が一番ヌーソロジー的なのだが、ここが一番ややこしい。

 

ただの「平行」だと「二元論」と変わらなくなるからだ。

 

 

●現実無視のスピリチュアル

 

「二元論」や「観念論」の問題点は、「死んだら別の世界に行く」というところ。これが「現実無視」のスピリチュアルをもたらす。良い意味でも悪い意味でも「軽い生き方」になる。

 

良い意味は「多幸感」をもたらすのだから良いとして、悪い意味の「軽い生き方」とはどういうことか。

 

誤解を恐れず言えば、ずばり「人の心の痛みが分からない人間」を作り出すっていうこと。

 

後天的サイコパスになってしまう。これが既存スピに蔓延している現状だよ。

 

宗教の盲信者を思い出して。心優しい人が、とある宗教にはまってしまったら壺を売ったり輸血を断ったり、いろいろややこしくなるでしょう?

 

世界にいまだ止むことのない戦争も突き詰めれば宗教的信条が原因になっている。信条と信条のぶつかり合いだ。

 

こんな状況になった宗教信者に比べれば、「脳機能主義」の唯物論者の方がずっと人格的だよ。彼らの方が平和的。

 

 

ともかくスピノザやヌーソロジーは「死んだら別の世界に行く」という考え方はしない。

 

そうではなく「目の前が霊界、永遠の世界」と見るのだ。「永遠の霊性の表現」と言い換えてもよい。

 

我々はすでに霊界に生きている霊人なのである。当たり前のことでしょう?

 

 

●今月のテーマは「脳」だ

 

随分前置きが長くなった。話を今月のテーマに戻そう。

 

今月は「脳」を取り上げる。統心は「脳科学」好きだ。

 

半田さんが「素粒子の正体を意識」と考える、その同じ方向性で統心は「脳を意識のカタチ、もしくは表現体」と捉える。

 

「脳」がそのまま「意識のカタチ」・・・これって半田さんの「素粒子は意識だぁ~!」より分かり易くない?(笑)

 

これは99%冗談。というのも半田さんが素粒子を根拠に置くことは、そんな生やさしいことじゃないから。もの凄く奥深い思索だから。

 

でも後の1%は冗談じゃない。少なくとも「私たちの意識」のカタチが「脳」にそのままダイレクトに現れていると統心は素直に思う。

 

そこで今月のテーマになる。