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2025年7月の方向性

 関西ヌーソロジー講座2025
「4次元は目の前に」~意識の位置を問い直す全11回の旅
第3回:Ω3(水星)

テーマ:まず「私」から始めよ──フッサール現象学の挑戦
~「主観への徹底」が導く先、「間主観性」の落とし穴とは?~


●失われた「生活世界」

測定され、分析され、数値化された世界・・・科学の扱う「ガリレオ的自然」

それは正確ではあるが、どこか無機質で、誰のものでもないような「空虚な客観」の世界だった。

そんな時代に、哲学者フッサールは叫ぶ。「科学は、世界の意味を語ることができない!」

彼が『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』で発したのは、私たちが“生活世界”・・・生きた経験の世界・・・から切り離されてしまった、という重大な警告だった。

そして彼は、“世界の意味”を取り戻すために立ち上がる。

あらゆる先入観を括弧に入れ、“純粋に見えているもの”だけに立脚するという、哲学史上かつてない「主観への徹底」を開始したのである。


●カントの構成、フッサールの徹底

そもそも、なぜ私たちは“生活世界”を見失ったのか。

そこには──自然科学を正当化しようとしたカントの意図が、大きく関わっていた。

彼は、世界をすべて“わたしの内面における構成”へと還元することで、科学的世界観に哲学的な正当性を与えようとした。

だがその代償として、“生きた現実”が捨象されてしまったのだ。

こうして、生活世界は姿を消し、測定され、数値化された「ガリレオ的自然」だけが、唯一の“正しい世界”として残されることになった。

この状況を覆そうと登場したのが、フッサールである。

彼は、カントが行った“内面への還元”が途中で止まっていると見なし、あらゆる先入観を括弧に入れるという方法で、その還元を徹底させようとした。

──しかし皮肉にも、フッサール自身にもまた、不徹底があったのである。


●閉じられた意識──「最終構成」という牢獄

こうして、フッサール現象学に残された“わずかな不徹底”は、後の時代において、意識を〈見るもの〉として固定する構造へと継承されていった。

それはやがて、世界を「脳内に映し出される表象」として捉える認識モデルへと収束し、ついには、私たちの体験そのものが「神経回路の出力」に還元されるようになった。

そして今……脳=自己、脳内データ=わたし、データ・アップロード=永遠の命といった、情報的自己モデルが常識のように語られている。

もはや、魂も死も要らないというのか。

私たちは現在、従来の哲学が想定したどの“危機”よりも深く、重く、絶望的な「最終構成」と呼ぶべき地点に突き当たっている。

●魂の回復──還元から反転へ、「見る私」を超えて

では、私たちはどこへ向かえばいいのか。

この絶望的な“最終構成”を超えるための、一手は何か。

それが──ヌーソロジーによる、“還元のさらに向こう”への跳躍である。

意識の位置を“内”にとどめるのではなく、その内のさらに奥──内の内は、実は“外”だったという構造の反転。

カントが始め、フッサールが徹底した〈内面への還元〉。

だがその還元は、結局“見る私”を残してしまった。

ヌーソロジーは、そこからさらに反転する──“見る”私から、“映す”前面へと、位置をひっくり返すのだ。

「前」が語っていたのだ。そこに「私」はいたのだ。

この“前面へのジャンプ”──すなわち〈外面回路〉への跳躍にこそ、魂を再び世界と結びなおす、決定的な通路がある。

そして、最後に立ち上がる問い。

「そもそも、“私”とは“鏡”だったのではないか?」…!!!

――“見る私”ではなく、“映す私”へ。

そのとき、あなたの輪郭は静かにほどけ、空間とひとつになる悦びに満たされる。