~ 意識を脳から脱出させよ、ベルクソンのイマージュ
「違う、脳じゃない」・・・この事を彼は「脳は行動の道具であって、表象の道具ではない」・・・と喝破した。今から100年以上前に出版された『物質と記憶』の一節・・・孤高の天才、フランスの哲学者ベルクソンである。
どうして人は「脳が意識を生み出す」などと考えてしまうのか。もしそうだとしたら「死んだら終わり」となる。死んで肉体としての脳がなくなれば意識も消滅する。・・・唯物論である。果たしてこの唯物論は「科学的」な考え方なのか?
この様な考え方をする唯物的科学は、徹底的に「脳機能」を分析し多くの知見を得るようになった。そしていま正に「人間の認知」は解明されようとしていると。それは「認知」が数学で記述され、計算機に載るようになることを意味する。その結果、人工知能は急激に発達し、やがては意識を持つようになり、さらには人間の意識を死後コンピュータの中にアップロードする事も可能になるだろうとまで言う。
そんな科学だが、実はある事を「説明不能」として切り捨て、学者によっては「ない」という事にすることで成立している・・・それが「自由意志」「クオリア」「主観性(第1人称)」の根拠と所在だ。そしてこれこそが、素朴な人々が「心」とか「魂」と呼ぶものである。すなわち人間の霊性のことだ。
科学はこれを説明できない。正直に限界を露呈しているのである。しかし彼らはそれを「限界」という代わりに、むしろ積極的に「霊性を無視」する方向へと走り出した。それが認知テクノロジーの暴走である。
霊性を信じる「素朴な二元論」は彼らを止められない。「二元論」が持つ矛盾性がどうしても説得力を欠くのだ。では「霊性一元」を信じる観念論やスピリチュアリズムはどうか? こちらも彼らを止める力をもたず、むしろ自身がすっぽり飲み込まれている。人工意識に取り組む学者の多くが仏教的無神論に寄りがちなことを見ればこれは自明だ。
「違う、脳じゃない」・・・そう、この混乱の根本原因は、意識や心が「脳内現象」だと勘違いしていることにあったのだ。デカルトに始まり、カントによって確定された「認識主体」としての「近代自我」である。その自我が、いま自らの墓穴を掘り始めたのだ。ここで霊性を目覚めさせなければ、自我と共に埋葬されてしまうだろう。
だからこそ「意識を脳から脱出させよ」・・・100年以上も前にこの事に気づき、意識が脳に由来しないことを「科学的」に検証しようとしたベルクソンの『物質と記憶』。この思想は同じフランスのドゥルーズに引き継がれ、いまヌーソロジーとして結実しようとしている。
目からウロコの連続、含蓄ある統心トークも満載の充実回。ヌーソロジー攻略の為にもベルクソン思想を体得することは必須である。さあ、脳から脱出しよう!
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